読むラジオ

2024年10月25日

読むラジオ|報恩講ってなんですか?

この記事はポッドキャスト「伊豆の国しょうれんじラジオ」2023年9月配信のエピソードの書き起こしとなります。音声版はこちらからお聞きいただけます。(リンク

【話しているひと】

渡邉元浄(以下、住職)
遠藤卓也(以下、遠藤)※住職友人、各地のお寺に詳しい

======================================= 

遠藤:こんにちは、元浄さん。

住職:こんにちは。

遠藤:伊豆の国しょうれんじラジオ、今日もよろしくお願いします。

住職:お願いします。聞いてくださってる皆さん、いつもありがとうございます。

遠藤:ありがとうございます。

住職:今回の台風7号の猛威といいますか、静岡で竜巻が出たっていうね。

遠藤:静岡にそんなに影響が。

住職:そういうニュースが出てましたね。

遠藤:お寺の行事としては、お盆も過ぎて。

住職:お盆とね、お彼岸って近いんですよね。

遠藤:秋のお彼岸が見えてきて、その先には「報恩講」というビッグイベント。

住職:そうです。「報」は “報恩感謝” ですね。ご「恩」に報いるお「講」。お講というのは “集い” の意味ですね。みんなが集まるっていう意味です。

遠藤:正蓮寺でもね、毎年お勤めされていると思うんですけれど。

住職:はい、コロナでね、ずいぶん翻弄されて。
いろんなお寺が「なんとか報恩講は勤めたい」と思うけれど、人数を少なくしたり、お坊さんだけでやったり、役員さんだけでやったり…やむなく中止にしたり。そういったとき、報恩講って何だろうか、ということをどのお寺も考えずにはいられなかった。そんなこの数年だったと思いますね。
まあ、正蓮寺でも去年久しぶりに……正蓮寺は子ども園をやってるということもあって、他のお寺はみんな報恩講をやり始めたけれど、正蓮寺だけが復活できないという期間もありますから。私も含め、役員さんやお檀家さんもね、「えー、報恩講やらないの」というような歯がゆさをずっと持ち合わせていた、そんなことがあります。
今年の10月はですね、初めていろいろあり方を変えてやってみようと。久しぶりに報恩講を勤めるわけですけれど。いろいろ変化を楽しみながら勤めたいと思ってます。

遠藤:どのあたりが変わるのか、をお聞きできればと思います。

住職:そうですね。今まで正蓮寺の報恩講というのはですね、もちろん報恩講というのは、浄土真宗の宗祖親鸞聖人のご命日11月28日に親鸞聖人を偲んで、みんなが一堂にお念仏をして、お坊さんが集まったりとか、あるお寺ではお食事をみんなで作ったり、そういうふうにみんなで作り上げるひとつのお祭り的なね、イベント的なものもあったかもしれないですけれど。正蓮寺ではじゃんけん大会とかそういうこともあったりとか、賑やかな、賑々しい雰囲気がありました。けれど、なかなか……本当にこれでいいのかなということを私もずっと疑問に感じていましてね。いろいろ模索をしてきたわけです。

遠藤:はい。

住職:簡単に言うと、かなりシンプルにして。お経を聴くお勤めの時間と、法話を聞く時間。それをシンプルにどなたでも味わいやすいように、そういうふうにちょっと時間等を設定しているところですね。

遠藤:なるほど。

住職:今まではたとえば始まるときに、会長挨拶とか、司会進行とか、なんかちょっと緊張感が漂いすぎる、「あの役はやりたくはないな」っていうね。どこの組織にもあるんですけれど、そういう挨拶とか、開会のことばも一切なしにして、時間になったらお勤めが始まり、時間になったら休憩があって、時間になったらお坊さんが来てご法話をしてくださると。時間になったら、三々五々「じゃあね、また来年」みたいなね。そんな感じでシンプルにね、考えています。

遠藤:なるほど。参加しやすい雰囲気にしていきたいっていう。

住職:そうですね。今までは来られた方に、お弁当をご用意したり、出欠も取ってましたけれど、今年は一切出欠も取らないで。お申し出される方はいらっしゃいますけれど。各地域の人たちが何人出るかをお宅に聞きに行くとか、そういうこともなしにして、有機的にことが進むように。

遠藤:じゃあ、ちょっとお友だちを一緒にお誘いしてもいいわけですね。

住職:そうですね。既にね、みんな正蓮寺で集まる人って、悲しみの共感から始まったお友だちっていうのがあるんですよね。だからそこに集う人たちはみんな、その悲しみとか寂しさを共有、共感している。そういう集まりなんだな、っていうことをね。だから、そこでつながる疑似家族のようなつながりっていうのが、お寺にはありますね。

遠藤:その場に一緒に集まって、おたがいの顔を見て、ああ、みんな来ているなと。

住職:たとえば、お坊さんの話を聞いて、こう、頷くんですよね。共感する部分があるじゃないですか。で、となりに座っている人も頷いてるとなんか嬉しいですよね。

遠藤:そうですね。

住職:お坊さんいいこと言うな、だけじゃなくて、となりの人がうんうんって私と同じ気持ちのところで深く頷いてくれてるっていう。この人、もしかしたら同じような境遇かもしれないとか。そういうことは感じるかもしれないですね。

遠藤:同じ本堂で一緒にお参りするからこそわかることですよね。

住職:そうですね。法要(おつとめ)の部分だけ来てもいいし、法話だけ来てもいいし、ゆるっと始まってゆるっと終わる。そんな感じですかね。

遠藤:報恩講というとね、親鸞聖人のご命日を偲ぶ法要であるという浄土真宗としての大前提がありながら、住職としては親鸞聖人のことだけではなく、やっぱりそこに集う人たち、そして檀家さん、それぞれの祖先を偲ぶような、そんな法要に…

住職:そうですね。親鸞聖人はことごとくですね、いろんな言葉の中に「我ら」っていうことばをね、いつも使ってるんですね。なんて言うのかな、「我ら」というのは「私たち」なんでしょうけれど。たとえば、「煩悩を持ち合わせている私たちです」ということばの中に、親鸞聖人も入ってるし、僕も入ってるし、遠藤さんも入ってるし。なんか面としてね、つながり。そういう僕たちなんだっていうことを、確かめさせてくれる。僕の中では、報恩講っていうのはそういう位置づけ。

遠藤:確かめ、ですね。

住職:そう、確かめ。確かめって、最近、僕好きなんですよね。お寺に来て確かめる。たとえばもっと何だろうな。お墓参りにたとえるならば、お墓に行って、亡くなった人の前でね、確かめるわけですよ。僕だったら、「僕は父の子どもだな」とか。それは当たり前なんだけど。僕の父はこういう生き方だったなとか、ああ、あんなことがあったな、こんなことがあったな、ってことを確かめるんですよね。うん。
算数とかでも、最後、「たしかめ」という4文字でね、「確かめしたか?」とか。報恩講も、お墓参りも、亡き祖先を偲んでね、私とその人はそういう関係性だったなと。そこに集まったとなりにいる人とは、こういう関係性なんだな、ということを、新たに作る必要はないですけれど、それを確かめる場所というのが報恩講かもしれないな。じゃなかったら、毎年やる必要もないよな、っていうふうに思いました。

遠藤:毎年、繰り返される場ですからね。

住職:そう、繰り返される……そうだね!

遠藤:そうですよね。なるほど。

住職:どうしてもお寺の法要というのは、おじいちゃんとかおばあちゃんとか、そういう人たちがね、集まる場所のように見えるでしょう。

遠藤:はい。

住職:たいていそうだとは思うんですけれど。でも、うちのお寺は年齢層が低いんじゃないかな。そんな気がしますね。やっぱり、悲しみの共感をね。この自分たちが持っている悲しみは、人間全体の悲しみなんだとか。先日、お寺の掲示板に書かれた言葉ですけれど、自分たちの大切な人が感じた悲しみや痛みというのは、きっと人間全体の悲しみや痛みなんだな。それはきっと、私たち全員が感じる悲しみ、痛みなんだなっていうことを確かめる。

遠藤:やっぱり確かめる場ですね。

住職:そうですね。今まで僕は何か新しいこととか、何か楽しいこととか、そういうことを…あの人がここで挨拶してとか、きっちりきっちりとか、そういうことにばかり僕は染まっていたんですけれど……

遠藤:うん。

住職:そこからやっぱり一歩抜け出したなって思ってますね。

遠藤:うん。

住職:やっぱり報恩講のあり方というのを見直して。

遠藤:時期は10月ですか?

住職:今年は10月29日(日)に行われます。

遠藤:報恩講は11月、12月が多いような気がしますが、比較的早いのかな。

住職:そうですね、10月というのはあまり聞かないかな。というのも、11月ってね、いろんなお寺さんが「11月第〇曜日」とか日にちでバチッと定例で決めてるとか、そういうのがあるんですけど、それをうちは避けてます。というのは、もともとね、3月にやってたんですよ。

遠藤:全然違いますね。

住職:そう、10月に戻したのはここ10年ぐらいなんですけれど。それまでずっと3月にやってました。しょうれんじこども園、寿光幼稚園、楽生保育園の子どもたちがね、昔2月にお遊戯会があって、そのお遊戯が終わった頃に報恩講を勤めて、余興じゃないけれども、檀家さんの子どもやお孫さんを集めて、お遊戯をやったんですよ。報恩講の前かな、後かな。「あれはうちの孫なんだよ」ってとなりの人に言ったりね・笑

遠藤:はい。

住職:それでも昔は30人~40人すぐ集まったんですけれどね。今はなかなか孫が一緒に住んでない家の方が多いので、そういうことでできていないんですけれど。将来的には、もう一度ね、園児だけじゃなくて、小学生とか中学生とか、それこそいろんないのちが集まる報恩講にしたいなっていうふうに考えてますね。

遠藤:ご本山の方では、子ども報恩講みたいなものをやってたりするんですよね。

住職:そうですね。報恩講って1日だけじゃなくて、本山なんかでは7日間やるんですよ。で、地方のお寺は3日間とか2日間とか。うちのお寺も寺院規則では3日間となってるんですけれど、なかなかちょっと難しいので、1日だけなんですけれどね。子どもだけでお勤めをしたりとか、子ども向けの紙芝居があったりとか、人形劇があったりとか。そういうふうにしてお祭り騒ぎみたいなことやってますね。「親鸞聖人、ありがとう」、「私たち・僕たちにまで教えを届けてくださった仏さま、ありがとう」っていうような集いですね。

遠藤:正蓮寺もね、こども園がねありますし、そういう方向性もどうですか?

住職:そうですね。土日に本当はやれればいいけれど、園の行事との兼ね合いとかね。いろいろありましてね、一言では言えないんだけれど。

遠藤:でもいつの日かは、子どもも交えて、という形でできたらいいですよね。

住職:そうですね。前回のポッドキャストでご紹介した『真宗児童聖典』。あれがやっぱりいいなと思っているので、職員やみんなとね、子どもの心、仏の子どもの心にちょっと触れて、そういうものを育んでいきたいなと思っています。

今年の報恩講は、今までと違ってかなり凝縮された、とてもシンプルになって。自分の生きる意義とか生まれた喜びとか、そういったものを感じられるものにきっとなると、そういうふうに願っています。

遠藤:確かめの場として。

住職:はい。確かめの場として。

遠藤:みなさんお誘い合わせの上、お参りしていただけたらと。

住職:そうですね。ぜひお参りになってください。

遠藤:では今日はこの辺で。

住職:どうもありがとうございました。報恩講でお会いしましょう。

=======================================

書き起こし:小関優 https://yuukoseki.com

音声版(ポッドキャスト):

※ Spotify、ApplePodcast、AmazonMusicでも配信しています。番組を検索・フォローしてお楽しみください。